よくあるご質問

「葬式や年忌供養はお寺に頼みたいが、檀家にはなりたくない」という話をよく聞きますが、どうなのでしょうか?

まず、「檀家とは何か?」が問題です。
今の日本では、「お墓のある寺院」もしくは「位牌やお骨を預かったりして供養を頼んでいる寺院」という感じでしょうか。
しかし、これだけ寺院や葬儀のあり方が問われているので、根本から考え直してみる必要があります。
では、檀家とは何か?
檀家はインドの言葉「ダーナ」に発し、ダーナつまり布施をする人、もしくは布施をする家です。
だから、檀家という言葉は、お墓やお骨の問題より先に、尊い布施を行うというところに核心があります。 そして、布施は「お布施とは何ですか?」に書いたとおり相手のために見返りを求めずに行うものです。
布施の行為は自分自身の人生修行になるので、布施行と称されます。
それが寺院と娑婆の方々との間で成り立つ時、寺院は「法施」という修法による布施を行います。
法施に際しては、奴隷の姿をした不動明王と同じく皆さんの僕となって、何としても皆さんの願いに応えられるよう、一心に勤めます。
一方、娑婆の方々は「財施(ザイセ)」と呼ばれる財物などによる布施を行います。
財施に際しては、もの惜しみしたり、損得勘定をしたりせず、徳積みをさせていただくという清浄な気持で捧げます。
こうして、僧侶を媒介として、娑婆の方々はみ仏に守られ、み仏のおられる寺院は娑婆の方々によって守られます。
互いに相手のためになることによって自分が守られ、真の布施が成り立ちます。

では、現状における檀家のありよう、寺院のありようはどうなっているか?
双方共に、本来の姿から遠ざかりつつあるのが実態ではないでしょうか。
もちろん、こうなった一番の原因は、いわゆる檀家さんを寺院に〈所属〉しているお宅ででもあるかのように勘違いし、寺院の都合で葬儀料や戒名料や本堂の修理費などを〈請求〉してきた寺院にあります。
寺院は〈この世の幸せとあの世の安心〉を求めるすべての方々のために開かれた公器であることを認識し、相手をわけへだてせずせず本来の法務に専念すること。
また、あくまでも自主的で清浄なお布施でのみ寺院を維持して行く覚悟を新たにすること。
そして娑婆の方々は、いかなる僧侶によっていかなる法務が行われている寺院であるかをよく調べ、信頼できる寺院へ人生相談し、葬儀や供養を依頼すること。
また、ご本尊様がおられる寺院を自分で都合良く利用しようとするだけでなく、この世もあの世もお守りくださるご本尊様のおられる寺院を支えるために布施を行い、それによって我欲を離れる人生修行とすること。

このように檀家も寺院も基本に立ち返った姿になれば、冒頭の考えは生じなくなることでしょう。
僧侶や寺院を信頼し、何かを依頼するのであれば、当然何らかの形でダーナ(布施)をする人、つまり真の意味の檀家さんになるはずだからです。
檀家さんは、墓地の永代使用契約をした人やお宅に限りません。
冒頭の考えに含まれる「縛られる」という感じは、寺院の側が本来のありようを取り戻せばなくなることでしょう。
檀家さんもまた、せっかく選び、縁となった寺院に学び守られて行こうとするならば、自発的に檀家である関係を継続することでしょう。
また、せっかくここまで読まれた方々の中に、「み仏に救われたいが、み仏のためになる布施はしたくない」と考える方はおられないと信じています。

ものごとを根本から、ものの道理をもって考え、判断し、行動したいものです。

厄年など、毎年の運勢はどう考えればよいのですか?

当山では三つの方面から皆さんの運勢を判断し、ご祈祷も行い、除災開運に役立てていただいています。
一つは、自分の生まれ持った星(本命星といいます)のある位置を考える方法です。
本命星は毎年、九つの位置を経めぐり、それによって「厄年」や「八方塞がり」などと運勢が変わります。
当山の厄払いは、九つの位置それぞれを守っておられる守本尊様にお力をいただく修法を行うものです。
たとえば、本厄では千手観音菩薩様、八方塞がりでは地蔵菩薩様などが、お守りくださいます。
もう一つは、その方独自の生まれ持った因縁と、育ちと生き方によって積み重ねた因縁とを観る方法です。
もう一つは、門外不出の秘伝によるものであり記述できません。
いわゆる霊感があると称する方々が「見える」「聞こえる」と言うように感に頼るのではなく、あくまでも所定の修行を積んだ結果得られた法力で判断します。
だから、当山の人生相談も厄除け祈祷も袈裟衣をまとい、ご本尊様と一体になる法を結んでのみ、行っています。

お化けのようなものが見えたり、「あなたには悪霊が憑いている」と言われたりして困る場合があるのですが、どうすればよいのですか?

通常は見えないはずのものが見えたり、聞こえないはずのものが聞こえたりするのにはさまざまな原因が考えられ、一概には言えません。
たとえば、何かの拍子に心へ強く刻まれた印象などが、視覚や聴覚に異常な反応を起こさせる場合があります。
また、不安を抱きながら夜道を歩いていて道ばたに落ちている縄を蛇と勘違いするといった錯覚を起こす場合があります。
また、「~のような気がする」といった内容を「~である」と断定することによって、自分が超常的な能力を持っているかのような心理になる場合があります。
また、統合失調症などの病気に罹っている場合があります。
そして、まれに、未成仏霊などの障りを受けている場合があります。
ほとんどは、心の傷や錯覚や自己満足や病気が原因です。
注意しなければならないのは、未成仏霊や悪霊を実体視して行う除霊などには怪しいものが結構あり、詐欺や脅迫はもちろん、傷害事件や殺人事件にまで発展する場合すらあるのはご承知のとおりです。
まず、信頼できるプロのアドバイスなどを得て、ものの道理を考え、自分の心のありようを見直し、自分の努力に加えて仏神のご加護もいただいて万全を期したい場合は正統な修法を受けることが大切です。
もちろん、状況によっては、医師の判断を仰ぐこともためらうべきではありません。
当山では、お大師様が説かれたとおり祈祷と医療とが車の両輪であると考え、どちらが必要かを判断し、信頼できる専門家のご紹介も行っています。

ご葬儀では何が行われているのですか?

皆さんは、結婚式と結婚披露宴との違いを知っておられますね。
ご葬儀も同じで、司会者が「葬儀、並びに告別式を行います」と言うのはそのためです。
およそ30分から1時間かかる修法の中で最も大切なのは、「カーッ」と気合をこめて引導(インドウ)を渡す瞬間です。
僧侶はここで亡くなった方へ〈この世とあの世の区切り〉を確実につけていただくてめにこそ、所定の修行を行って法力を磨きます。
よく「ただいまより読経を行います」と言いますが、お経を読むのは、お導きくださるご本尊様や御霊をご供養するためであり、法力を動かせなければ目的は達成されません。
確かに法力は目に見えません。
しかし、お身内の方などは、何か異次元のできごとがあったことを感じられる場合が多いものです。
逝かれた御霊も、送り供養する方も、ここがすべての始まりになります。
私は、引導や祈祷の際に法力が動かせなくなったと気づいたならば、ただちに引退する覚悟で日々の法務を行っています。

戒名とは何ですか?

文字通り、戒律と共に授かる名前です。
この世で得度して僧名を授かったり、生前戒名を授かったりすれば、必ず一緒に戒律が授かります。
そして、今の日本では多くの場合、あの世へ旅立つための新たな名前として授かります。
つまり、生きている方ならば、生き直しをするため、亡くなった方ならば、み仏の子としてみ仏の元へ向かう旅路を確かなものにするための名前です。
戒名は三つのパーツとしての熟語から成り立っています。
一番上は院号(インゴウ)で、その人の総徳、いわば魂の色合いが表れます。
真ん中は道号(ドウゴウ)で、この世で生きた姿が表れます。
一番下の「~居士」や「~大姉」は法名(ホウミョウ)で、この世で生き直す時に導きとなる道筋、あるいは死後、み仏から授かる徳が表れます。
法名は僧名と同じであり、生前戒名を授かった方は、おりおりにこの名を名乗れます。
こうした戒名を授かるのは、親がわが子に名前をつけるのと同等か、それ以上に尊く難しいことです。
だから、一文字いくらで売り買い同様に決まるものではなく、当山ではご本尊様へ祈り、授かったものをお伝えしています。

お墓とは何ですか?仏壇とは何ですか?位牌とは何ですか?

お墓はあの世の家です。
家といっても私たちが「ただいま」と毎日帰るようなものではなく、そこに納められたお骨を拠り所として憩える場であり、あの世の方々はこの世の時間的空間的縛りを超えて自由に動き回っておられるとされています。
それが安全、安心に可能となり、心を寄せるこの世の人びとの心が通じるためには、お墓が単なるお骨の箱でなく、ご本尊様に守られた聖地にならねばなりません。
そのための修法が「開眼(カイゲン)法」といわれるもので、悟りの境地でじっと瞑目しておられるみ仏の御目を開いていただくのです。
仏壇も同じくあの世の家ですが、その形はそもそも小さなお寺のようなものでした。
つまり、家に小さなお寺を建立してみ仏をお招きし、み仏に守られた場で御霊にお休みいただくのです。
だから大きめの仏壇をよく見ると、ご本尊様をお祀りする部分はお寺の壇と同じ形になっており、その上に屋根の形がついているものもあります。
仏壇にお座りいただいたご本尊様の開眼法を結ばねば、ご本尊様はただの置物でしかなく、お位牌を拠り所とする御霊も、手を合わせる私たちもそのご威光に浴することはできません。
位牌は御霊の依り代です。
そもそもは釈尊が亡くなられた後、お骨を分骨して塚をたくさん造ったのが始まりで、そうした目印となるものへ開眼法を結べば御霊の依り代となり、同時に祈る私たちが御霊へ心を通じさせるための目標物になります。

お布施とは何ですか?

インドの言葉「ダーナ」の翻訳で、「見返りを求めない清浄な施し」です。
無心で誰かのためになり、それが自分の喜びと感じられるようになれば、ある意味で〈心の完成〉と言えましょう。
だから釈尊は、人間が人格を完成させるための実践法として、第一番目に布施行を挙げておられます。
清浄であるかどうかは三つの面から確認できます。
布施をする人の心、布施に用いられるもの、布施を受けるあいての心です。
また、布施に用いられるものはお金や財物とは限りません。
津波に遭った被災地で泥を除けるボランティアの方々が提供する労力や、ありがとうの言葉や笑顔や、誰かの無事を祈る心も皆、布施になります。
寺院へ納める「お布施」はすべて、み仏を信じ、尊び、寺院を維持しようとする心の表現なので、定価をつけることはできません。
たとえば、大恩ある親を無事安心に送るという一生に一度の大事に、誰がどうやって値段をつけられましょうか。
もしも5万円としたならば、それはおおよそカラーテレビやパソコン一台の値段です。
もしも500万円としたならば、給与所得者の4分の3に当たる方々にとっては年収以上の金額になります。
また、同じ100万円も、年収200万円の人における生活上の価値と、年収1000万円の人における生活上の価値とはまったく異なっています。
そもそも請求という形をとり得ず、納める心の表現方法であるお布施を、金額の面から価値判断することはできません。
相手が寺院であるかどうかに関わらず、布施行が求められる場面は、〈モノ欲しさ〉や〈モノ惜しみ〉や〈自分可愛さ〉と向き合う人生修行のチャンスです。
また、自分が仏神から試されているとも言えます。
被災地で黙々と汗したり、被災地へ思い切って支援物資や義援金を送ったりする時の尊い心を忘れないようにしたいものです。

年忌供養とは何ですか?

日本人は古来、死後は「十三仏(ジュウサンブツ)」様に導かれて安心な世界へ行けると信じてきました。
枕経では、最初の一週間を司る不動明王様が、あの世で迷わぬよう、この世ならぬ善からぬものたちが近づいてこないよう、守ってくださいます。
四十九日忌では、薬師如来様が、この世への未練や気配を断ち切り、み仏の世界への道行きを後押ししてくださいます。
百か日忌では、観音菩薩様が、阿弥陀如来様のおられる極楽浄土への道を示してくださいます。
三回忌では、阿弥陀如来様が光の世界の門を開いて招き入れてくださいます。
このように、この世で親や、先生や、先輩や、上司や、師や、仏神に導かれて成長するのと同じく、あの世の旅にもまた、魂を清め、み仏の世界へ溶け込むためのお導きがあります。
そもそも、この世でさんざん迷い、悩み、多くの方々のおかげでようやく生きている私たちが、あの世へ行ったかといって、いきなり自分だけの力で安心な境地に入れるとはとても思えないではありませんか。
有史以来、世界中であの世の導きが説かれ、信じられ、それによって心の平安が得られてきました。
たとえば『チベットの死者の書』は、世界中のターミナルケアに用いられています。
私たちも父祖が残し、行者たちがその修法を行うための法力を得るべく修行し続けてきた「十三仏様」を信じ、しっかり供養を行いたいものです。

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